2014年12月29日月曜日

水谷先生5

水谷先生に,今まで,直接,恩返しができたのは,水谷本と私が呼んでいる,『日本語教育の過去・現在・未来』の5巻本のうちの2巻の編著で携わったことだと思います。
これらの本は,2009年に出たのですが,そのときの水谷先生のお話は,「30年後でも色あせないものを」でした。しかし,私は,「30年後にはすっかり色あせているものを」と考えました。それは,質のよくない論文集にするということではなく,30年後には,実践や研究が進んで,2009年現在での課題が,30年後の未来にはすっかり克服されていて,そのとき,「30年前の過去には,こんなことが課題とされていたんだ」と思ってもらうということです。

そのため,本では,2009年現在での課題と未来に向けて何をするべきを記しました。「何をするべきか」とすると,水谷先生が嫌いな「べき論」になってしまいます。そこで,私がこれから何をしたいか,そして,何をするかを約束する形で書きました。それから,まだ,5年半がたちました。不本意ながら,ここで,何がどこまでできて,何がどこからできていないかについて,まずは,来年の夏までに,イベントなどで振り返っていきたいと思います。
   河野俊之

2014年12月26日金曜日

水谷先生4

4つ目です。
これで終わりかもしれません。

実は,私は,水谷先生に手放しでほめられたことは1回しかありません。それもブログには書けませんが,いいできごとではありません。

それを除くと,「まだまだだ」と言われて,それに加えて,ちょっとほめられただけです。さて,『音声教育の実践』(くろしお出版)が今年の3月に出ました。自画自賛ですが,いい本だと思っていますし,先生に褒めてもらえると思っていました。春休みに水谷先生にお渡ししようと思っていました。ですが,今までと違って,褒められたら,先生が元気でなくなっているということで,そんな姿を見たくないという怖さがありました。ほんとうに怖かったんです。水谷先生は,1211日生まれなので,そのあたりでお電話しようかとも考えていました。また,仕事の関係で,その後,水谷本(水谷修監修『日本語教育の過去・現在・未来』凡人社)を読み返していたところでした。でも,電話はしませんでした。それが心残りではあります。私をずっと気にかけてくださっていたというのは,いろんな方からお聞きしています。でも,怖かったんです。それで,お声は聴けませんでしたが,私はそれでよかったと思っています。院生時代から,水谷先生に初めて会ってから30年以上たって教授になった今も,何か研究や仕事をしているときに,「これを水谷先生に報告したら,何て言われるだろうか」といつも思います。そして,弟子として,水谷先生の顔に泥を塗るようなことは絶対にしたくないし,何よりも,水谷先生をがっかりさせるようなことをしたくないと思って仕事をしています。ですから,水谷先生はずっと私の中で生きています。

    河野俊之

2014年12月25日木曜日

水谷先生3

3まで来ましたね。びっくりです。

私は,大学では,水谷先生にご迷惑をおかけしたことはあまりないと思います。1年生の前期に2回,学生証をなくして,事務に出す書類の捺印をお願いしたこと以外は。

ですが,大学院浪人中には,いろいろご迷惑をおかけしました。ブログには書けないことばかりなので,書けること1つだけを書きたいと思います。
大学教員になった人間が,大学院に入るときに,不合格で,浪人したというのも,びっくりされる方も多くいらっしゃるとは思いますが。


大学院浪人中に,日本語学校で日本語教師を始めたときでした。いろいろ悩みはありました。新米教師はふつう,学校内の経験が上の先生に相談するものだと思いますが,先生方は女性で私は男ということもあってか,なかなか相談できる人はいませんでした。そこで,相談したのがいきなり,水谷先生でした。当時の先生は,東京と名古屋の往復という生活だったのですが,私はかなり遠慮しながらも,電話していました。水谷先生は,いつも,1時間ほど付き合ってくださった後,「風呂の湯があふれているから」とおっしゃっていました。それは嘘だと今でも思っています。また,実は,内容は覚えていませんが,今の自分の基礎になっているように思います。
適当に考えて,水谷先生に相談するわけにはいかないので,当時は,最大限の努力をしたつもりでいます。だから,得るものが多かったんだろうと思います。なんだかんだで,私と同じ経験をした人はいないんでしょうね。

    河野俊之

2014年12月24日水曜日

水谷先生2

きのうは,お通夜でした。
こっちではお通夜の後,食事がふるまわれます。立食だったんですが,思わず,学会の懇親会と勘違いする場面も多かったです。みなさんから,いろいろ励まされたり。それは,「気を落とすな」とかではなく,「水谷先生に近づけるようにがんばれ!」ということばかりですが。ただ,私は,水谷先生と同じことで同じようにがんばるのはもう大学院生の時からあきらめています。人には,向き,不向きがあるので。
それはともかく,学会の懇親会のように,きのうも,「お! 元気か!」と水谷先生に声をかけられそうな気がしたし,それ以前に,今,先生はこの会場のどこで,だれと話しているんだろうか,とさえ思いました。
私の中では,生きているんです。

    河野俊之

2014年12月22日月曜日

水谷先生1

私が,現在,日本語教育に携わっているのは,水谷先生の影響です。福岡の高校生の時に,水谷先生の『日本語の生態』(現在は,『はなしことばと日本人』創拓社)を読んで,「おもしろいなあ」と思ったからです。それで,当時,水谷先生がいらっしゃった名古屋大学を受験しようと思いました。私は,地区でいちばんの高校に,かなりいい成績で入ったようですが,入学後,ラグビー部に入ってしまい,ひどい成績になってしまいました。名古屋大学だけを受験したのですが,そんな奴が名古屋大学に入れるわけがありませんでした。その後,浪人した後も,名古屋大学だけを受験しました。

水谷先生と初めてお会いしたのは,3月に名古屋大学に合格して,入学手続きの後です。とりあえず,水谷先生の当時の所属の総合言語センターを見てみたいと思い,入学手続きの後,総合言語センターの方に行きました。すると,写真でしか見たことがない水谷先生かもしれないと思う人が歩いていました。それで,思い切って,「水谷修先生ですか」と声をかけてみました。「はい,そうですが」のようなお返事をいただき,「水谷先生に教えていただきたくて,名古屋大学を受験しました」のようなことを言ったように思います。名古屋大学の文学部は,愛知・岐阜・三重という東海3県以外からの学生は,ほとんどいないのですが,あのとき,水谷先生が喜んだ表情をなさったのは,覚えています。私は4月2日生まれなので,大学に入ったときは,20歳でした。10代のうちに,水谷先生にお会いできたのは,ほんとうに幸せだったと思います。今考えると,全国,いや,世界を駆けまわっていらっしゃった先生が,春休みに大学にいらっしゃって,それも,その時刻に大学にいらっしゃって,さらに,私が歩いている前にいらっしゃった偶然に感謝しています。ですが,それは偶然ではなく,運命だったのかもしれません。あるいは,私の能力の一部だったのかもしれないとさえ思います。

    河野俊之

2014年12月21日日曜日

水谷先生

私の先生の水谷修先生が亡くなりました。

今は無理ですが,冬休みが明けるまでに,語れる範囲で,このブログに書きたいと思います。

あくまでも,語れる範囲であることが残念ですが。