私が,現在,日本語教育に携わっているのは,水谷先生の影響です。福岡の高校生の時に,水谷先生の『日本語の生態』(現在は,『はなしことばと日本人』創拓社)を読んで,「おもしろいなあ」と思ったからです。それで,当時,水谷先生がいらっしゃった名古屋大学を受験しようと思いました。私は,地区でいちばんの高校に,かなりいい成績で入ったようですが,入学後,ラグビー部に入ってしまい,ひどい成績になってしまいました。名古屋大学だけを受験したのですが,そんな奴が名古屋大学に入れるわけがありませんでした。その後,浪人した後も,名古屋大学だけを受験しました。
水谷先生と初めてお会いしたのは,3月に名古屋大学に合格して,入学手続きの後です。とりあえず,水谷先生の当時の所属の総合言語センターを見てみたいと思い,入学手続きの後,総合言語センターの方に行きました。すると,写真でしか見たことがない水谷先生かもしれないと思う人が歩いていました。それで,思い切って,「水谷修先生ですか」と声をかけてみました。「はい,そうですが」のようなお返事をいただき,「水谷先生に教えていただきたくて,名古屋大学を受験しました」のようなことを言ったように思います。名古屋大学の文学部は,愛知・岐阜・三重という東海3県以外からの学生は,ほとんどいないのですが,あのとき,水谷先生が喜んだ表情をなさったのは,覚えています。私は4月2日生まれなので,大学に入ったときは,20歳でした。10代のうちに,水谷先生にお会いできたのは,ほんとうに幸せだったと思います。今考えると,全国,いや,世界を駆けまわっていらっしゃった先生が,春休みに大学にいらっしゃって,それも,その時刻に大学にいらっしゃって,さらに,私が歩いている前にいらっしゃった偶然に感謝しています。ですが,それは偶然ではなく,運命だったのかもしれません。あるいは,私の能力の一部だったのかもしれないとさえ思います。
河野俊之